瘢痕

 すぐに消えてしまうものだと思っていたら、いつまでも傷跡が茶色く残っているので意外だった。
 ひとさし指の付け根から、手首に向けて2,3センチ程度。かさぶたが剥がれた後の変色した肌の上を、氷室は指で撫でていた。もう痛みも無い瘢痕(はんこん)はつるりとして乾いている。傷をつけたのはどのくらい前だったか。そう思ってふと数えてみると、いつのまにかもう2ヶ月も経っているのだった。
 こんなものが案外ずっと、残ったりするのだろうか。それは悪い気のしない予感で、氷室は機嫌よくひっそり微笑んだ。

 怪我の原因は今思い返しても笑ってしまうようなことなのだが、タイガは、気にするかもしれないと氷室は思った。

 ソファとローテーブルの狭い隙間で、なにか酷く盛り上がって口付けをしていた。寸前までは映画かなにか見ていたと思う。確か肩か指が触れたのを、あるいは目があったのをきっかけに。
 お互い興奮して余裕がなかった。ベッドルームまでは遠すぎて、興奮のままに火神がその場で氷室を押し倒そうとするのと、氷室の体からふっと力が抜けた瞬間が同時だったのだ。勢いがつきすぎてドタバタと見苦しくふたりで床に倒れこんだ。おそらくそのときどこかテーブルの縁にでもぶつけたのだろう。鈍い痛みに氷室が顔を顰めたときには手の甲に血が滲んでいた。 

「あっ!」

 先に声を立てて痛そうな顔をしたのは火神だった。
 そのあまりに必死な声に氷室がそっと顔を伺うとほんのついさっきまでギラついた男の顔をしていたのに、今やすっかり萎れた子供の目で氷室の手を見ている。もしかしたら泣きだすかもしれないとすら氷室が危ぶむような顔だった。

「ゴメン!手…」
「いいよ、気にしてない。」
「でも、痛いだろ…」

 もうすっかり意気消沈して項垂れている。救急箱を、と言って起き上がろうとする火神を捕まえて、ジーンズの股間を氷室は膝で蹴り飛ばしてやった。う、と息を詰まらせた火神は叱られると思ったのか情けない顔で氷室を伺う。

「なんだよ、折角興奮したのに。」

 火神は余裕を
消えないなら消えないで、それは幸福感のようなものを氷室にもたらしたので。




 家に帰るとテーブルの上にドラッグ・ストアの包みがあった。

「それ、火傷や傷痕を消すって。」

 小さな紙の袋に目を留めた氷室が、なにかと訊ねる前に、そう火神が説明を入れた。氷室はそれを聞いてほんの少しがっかりした。消えない方がいいのに。
互いの意図や疎通がこんな風に食い違うことはよくあることだったから、ふうん、と氷室は気のない相槌を打つ。

「いいのに。」




「痕、早くなくなるといいな。」

 火神は言ったが、氷室は逆のことを考えていた。このままずっと消えない傷になればいい。
氷室の願望は叶わないことの方が多かったので。

「こんなの、すぐに、消えて終わりだろ。タイガ。」

 
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